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東京地方裁判所 平成4年(ワ)5506号 判決

原告

高橋真知子

ほか三名

被告

阪田保

ほか一名

主文

一  被告らは、各自、原告高橋真知子、同塩井千鶴子及び同大塚万亀子に対し、それぞれ金八二七万〇三七三円、原告藤原孝に対し、金四一三万五一八六円及びこれらに対する平成二年八月二三日からそれぞれ支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告らのその余の請求をいずれも棄却する。

三  訴訟費用は、これを五分し、その四を原告らの負担とし、その余は被告らの負担とする。

四  この判決は、第一項に限り、仮に執行することができる。

事実及び理由

第一請求

被告らは、各自、原告高橋真知子(以下「原告真知子」という。)、同塩井千鶴子(以下「原告千鶴子」という。)及び同大塚万亀子(以下「原告万亀子」という。)に対し、それぞれ金三六五七万三四八〇円、原告藤原孝(以下「原告孝」という。)に対し、金一八二八万六七三九円及びこれらに対する平成二年八月二三日からそれぞれ支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二事案の概要(当事者間に争いがない)

一  本件事故の発生

1  事故日時 平成二年八月二三日午前二時五五分ころ

2  事故現場 東京都大田区多摩川二丁目一六番一号先道路

3  光幸車 普通乗用自動車

運転者 訴外黛光幸(以下「訴外光幸」という。)

4  被告車 事業用大型貨物自動車

運転者 被告阪田保(以下「被告阪田」という。)

所有車 被告城南運輸株式会社(以下「被告会社」という。)

5  事故態様 被告車が、先行する車両を追い越そうとして右側車線に進路を変更しようとしたところ、ジヤツクナイフ現象を起こして被告車を対向車線に進入させ、折から対向車線上を対向進行してきた光幸車と衝突した。

二  訴外光幸の受傷と自殺

訴外光幸は、本件事故によつて、くも膜下出血、脳挫傷、頭部外傷、右眼球部外傷、右上眼瞼外傷、右肘脱臼骨折、頸椎骨折、膝蓋骨骨折の傷害を負い、その治療中の平成三年九月一五日、自殺して死亡した。

三  責任原因

1  被告阪田

被告阪田は、走行車線を維持して進行すべき注意義務があるにもかかわらず、これを怠つて進行した過失によつて本件事故を起こしたのであるから、民法七〇九条により、原告らに生じた損害を賠償する責任を負う。

2  被告会社

被告会社は、被告車を所有して運行の用に供していたものであるから、自動車損害賠償保障法三条により、原告らに生じた損害を賠償する義務がある。

四  相続

原告真知子、同千鶴子及び同万亀子は訴外光幸と両親を共にする兄弟、原告孝は訴外光幸と母親を共にする兄弟であり、唯一の相続人であるから、原告真知子、同千鶴子及び同万亀子はそれぞれ七分の二ずつ、原告孝は七分の一、訴外光幸の損害賠償請求権を相続した。

五  争点

原告らは、訴外光幸は、本件事故によつて重傷を負つたことにより焦燥感を募らせて抑うつ状態に陥つた結果、自殺に至つたものであり、訴外光幸の自殺と本件事故との間には相当因果関係が認められ、かつ、寄与度減殺も認められるべきではないと主張して、被告らに対して、逸失利益、死亡及び傷害慰謝料、葬儀費、付添看護費並びに弁護士費用の合計一億二八〇〇万七一七九円の支払いを求めたのに対し、被告らは、訴外光幸の自殺と本件事故との間には相当因果関係は認められない、仮に相当因果関係が認められるとしても、相応の寄与度減殺をすべきであると主張している。

第三争点に対する判断

一  甲四、五、八の一及び二、九、一二ないし二二、三四、四一、乙一ないし二三、調査嘱託の各結果、証人豊川昇次(以下「訴外豊川」という。)及び同野田正彰(以下「野田医師」という。)の各証言並びに弁論の全趣旨によれば、以下の事実を認めることができる。

1(一)  訴外光幸は、本件事故により、外傷性くも膜下出血、脳挫傷、頭部外傷、右眼球部外傷、右上眼瞼外傷、右肘脱臼骨折、頸椎骨折、膝蓋骨骨折の傷害を負い、本件事故当日の平成二年八月二三日に国立東京第二病院に搬送され、同病院に入院した。受傷直後、訴外光幸には、ジヤパン・コマ・スケール検査でⅡの二〇、同三―三―九レベルの三段階と評価される重度の意識障害が認められた。又、CT検査の結果でも、散在的に挫傷性脳内出血、外傷性くも膜下出血が認められた。なお、頸椎骨折、膝蓋骨骨折は、入院時には発見されず、その後、同年一〇月になつて発見されている。

訴外光幸は、入院直後は意識がなく、国立東京第二病院救急救命センターの集中治療室で治療を受けていたが、その後、意識は回復し、同年九月一日、同病院一般病棟に転棟となつた。しかしながら訴外光幸には、一般病棟転棟後も、傾眠中、独語あり、夜間不穏症状あり、意味不明な発語などの異常症状が認められたため、看護上要観察とされていたが回復し、同月二六日に要観察状態は解除された。又、挫傷性脳内出血、外傷性くも膜下出血は、その後吸収され、両前頭葉に硬膜下水腫、慢性硬膜下血腫が出現した。他方、右肘脱臼骨折については、訴外光幸の意識状態及び右肘の創傷の回復を待ち、平成二年九月一二日に、右肘脱臼骨折に対する観血的整復固定手術が施術され、骨癒合を見た。

その後、訴外光幸は、順調に回復し、平成二年一〇月一三日、国立第二病院を退院したが、退院の時点での訴外光幸の回復状態は、右肘脱臼骨折については、骨癒合を見、軽快退院と考えられたものの、意識障害については、訴外光幸に見当識障害が認められ、会話内容に辻褄が合わない状態が残つており、担当医師は九〇パーセントの回復状態と判断していた。

(二)  訴外光幸は、国立第二病院を退院後も同病院に通院を続けた結果、平成三年二月一五日の時点で、CTスキヤン上で左前頭部に硬膜下血腫が残存し、記名力障害も認められ、三か月の加療を要すると診断されていたが、同年八月一三日に実施されたCT検査では、略正常と判断されるまでに回復していた。又、訴外光幸には、脳挫傷による外傷性てんかんを予防するため、抗けいれん剤が投与されていたが、同年八月八日に処方されたのを最後にその後は処方されなかつた。他方、訴外光幸は、知人との交際の中では、事故前に比して、同じことを繰り返して話し、そのことを気づかない、記憶力が減退するなどの症状が認められたものの、担当医師に対して、平成二年一二月一八日と平成三年三月七日に少し頭の働きが悪いなどとの愁訴をした以外は意識障害に関する愁訴をしておらず、その他、同年五月二日に、仕事のことで眠れなかつたと、同月三〇日に、眠れないと前頭部がしびれると愁訴した以外は、意識障害に関する症状は認められなかつた。このように、訴外光幸の頭部外傷及び意識障害は、日常生活を営むには支障がない程度に回復していた。

一方、右肘については、平成二年一一月六日に関節可動域が五〇度ないし七五度、回外三〇度、回内零度、平成三年一月二九日に関節可動域が四〇度ないし一〇〇度、回外二〇度、回内一〇度、同年五月三〇日に関節可動域が四〇度ないし九〇度の、各可動域制限が認められ、同年二月一四日の時点で、右肘関節に異所性骨化があり、手術が必要と判断されていた。このため、訴外光幸は、同年六月一四日から済生会神奈川県病院にも通院を始め、同年七月一八日に、右肘関節形成手術を受けるため入院し、同月一九日に右手術を施術された。その結果、訴外光幸の右肘の可動域制限も、平成三年八月九日には、関節可動域が七〇度ないし一一八度、同月一六日には関節可動域が六〇度ないし一一八度、同月二三日には関節可動域が五八度ないし一一八度、回外七〇度、回内五〇度、同月三〇日には関節可動域が五八度ないし一二四度、回外七五度、回内五五度、同年九月九日には関節可動域が五二度ないし一三〇度と改善され、伸展制限は持続しているものの、屈曲、回外、回内は、ほぼ正常域にまで回復していた。

(三)  訴外光幸の受傷は、後遺障害の残存は否定できないものの順調に回復しており、後記のとおり自殺直前に訴外石田則子(以下「訴外石田」という。)が訴外光幸の異常を感じた以外は、訴外光幸を診察していた脳外科医、整形外科医のみならず、原告ら親族も、また訴外光幸の知人も、訴外光幸が自殺をする兆候を認めることはできず、訴外光幸が自殺をしたことについて、一様に意外で驚いた。

(四)  訴外光幸が平成三年の出来事を記載した手帳には、平成三年の冒頭に、「体調を早く、治療、直すこと、店舗を早く見つけ、年内には開店すること、金作りの勉強をする」との記載が、三月一一日の欄に、「腕の状況がよくない、骨がついていない、一度バツテの手術のし返しか、もう少しつくのを待つか?骨と骨の間に骨をうめてしばらく待つか、どちらにしても手術は二回になる、もしこのまま骨がつかなければ手術は一回で期間も短くなるはずである」との記載が、同月一八日の欄に、「入院中に立退が決まり、今後仕事する場所がない」との記載が、同月二七日の欄に、「今後のスケジユール、一回目の入院はいつ、どのくらい、二回は、いつ、どのくらい、完全に治るのか、また以前に近づけるか」との記載が、同月二九日欄、「骨が半分くらいついて来たらもう少し待つて様子を見る、次回、四月二五日にレントゲンまで、仮に一回の手術で終わつたとしても手術後三か月ないし六か月はかかるという。」との記載が、四月一日の欄に「いままでは双栄企画の社員として勤めていたが出向として代々木の「ちよんまげ」をやつていた。がしかし、去年の交通事故の最中(入院中)に店の立退が決まつた。将来的には独立しようと考えていたのが、今度こそ独立するチヤンスであつた。物件も決まり、いつ開店しようかと思つていたが(契約も終わり)大切な右腕が使えず、いらいらしている。また今後どのくらいの治療が必要なのかさえ分からずじまいである。開店するまでの家賃を保証して欲しい。また開店したならすぐに車が必要となるので、車を準備して欲しいのと車庫を見つけて欲しいのと、もし近くになければ車庫のあるアパートを横浜か川崎に見つけて欲しい。」との記載が、五月二日「脳外、二日間、不眠と精神的な圧迫が重なり、首が中心で(事故で痛めた部)頭が痛くなつた。特に、頭はヒタイと手術した部、後頭部と目(右目)も痛い。」との記載が、八月二二日欄、「九月一日開店を目指しているが仕事をしても大丈夫かOK足の方、脳外ではCT問題ないが大丈夫かOK」との記載が、九月五日「左足は極端には痛くない(歩けない程痛くはないが)ひざ周辺(電車の中で立つているとまた動いた日など)が痛い。左目が疲れていた場合などまぶた周辺が調子悪い。見える範囲がせまくなる。時々、まぶたの下が、ビクビク小さく動いている。腹の底が、いままで経験したことのない様なムラムラやイライラがする。例えば、自分や他人に対してなどではなく単純に心の中がムラムラ、イライラする。」との記載が認められるなど、事故による症状に関する記載や心情を吐露した記載も見受けられるが、大半は、資金繰等、新店舗開店に関する準備に関することが記載されている。

2(一)  訴外光幸は、四人兄弟の末つ子として出生し、小学生のころに父親を、高校生のころに母親を亡くし、二女の原告千鶴子が母親代わりに面倒を見てきた。高校を卒業して上京し、新聞配達をしながら予備校に通い、三年後に神奈川大学経済学部に入学し、アルバイトと奨学金を受取つて卒業した。訴外光幸は、大学を卒業後、一時広告会社に勤めた後、飲食店でアルバイトをしていたが、昭和六三年一一月ころから、訴外池口眸(以下「訴外池口」という。)の経営する訴外有限会社双栄企画(以下「訴外双栄企画」という。)の経営する代々木所在の焼肉店「ちよんまげ」の店長をし、同店の経営を任されていた。さらに訴外光幸は、平静二年六月二九日に訴外有限会社双進商事(以下「双進商事」という。)を設立して、代表取締役に就任し、阿佐谷に焼肉店を開店し、阿佐谷店は双進商事取締役の訴外河原崎政博に経営を任せ、訴外光幸は、主として代々木店の経営に当たつていた。

(二)  訴外光幸は、負けず嫌いで、意欲的で、独立心が強く、人前では欝なところは見せない性格だが、反面、線が細く、人前での態度と一対一で話した際の態度にギヤツプがあり、一対一で話をする際は、将来のことに対する不安を話したりすることもあつた。又、早くに両親を亡くし、苦労して成長したことから、両親の墓を建てたいと願つていた。

3(一)  右のとおり、訴外光幸は代々木と阿佐谷で焼肉店を営んでいたが、訴外光幸が本件事故で治療中に代々木店が立退をし、さらに阿佐谷店が訴外河原崎政博とのトラブルなどから、訴外光幸は、平成三年五月一日ころ、訴外豊川に阿佐谷店を譲渡したため、訴外光幸は代々木に新店舗を開店しようと考え、入院中から開店のための準備を始めていた。訴外光幸は、開店準備の段階から、右肘が事故前の健康な状態にまで十分に回復していないことや、脳への受傷の影響で頭痛等が生じるため、開店できるか、開店後売り上げが上がるかに対し不安を持ち、訴外豊川や同松本ら知人に対し、その不安感を吐露することもあつたが、以前から独立心が強く、早期に開店したいとの焦燥感に駆られ、右肘等の完全な回復を待たず、代々木での焼肉店開店のため奔走していた。そして訴外光幸は、手持資金のほか、国民金融公庫等から一〇〇〇万円以上の融資を受け、平成三年九月一日ころ、代々木に焼肉店を開業したが、開店のために手持資金の大半を使つてしまい、本件事故による賠償金が入れば、焼肉店の経営が楽になると考えていた。

訴外光幸は、右腕が十分に使えないため、新規開店した店舗では調理場の仕事はせず、接客や会計を行つていた。又、多くの人のアドバイスを受け、両腕が使えないハンデを克服するための工夫をしており、開店当初の盛況ぶりから見て、新店舗の営業も順調にいくように見られたが、その後、訴外光幸が思つたようには売上げが上がらなかつた。

(二)  訴外光幸は、昭和六〇年ころに知り合い、かつて交際をしていた訴外石田に対し、平成三年七月ころから、しばしば酔つて電話をかけるようになり、「店の準備の方が順調だが、頭痛がする、足が痛い、右膝が痛い。」などと話していた。訴外光幸が自殺をした直前の九月一三日ころ、訴外石田が訴外光幸で電話で話をした際、訴外光幸は、「自殺を考えている、自殺したいと思うことがある、自分が自殺したら保険金は下りるかな。」などと言つて落ち込んでいた。訴外石田は、訴外光幸の様子が気になつて翌一四日午前二時ころ、訴外光幸のアパートに電話をして三時間くらい話したが、訴外光幸は、仕事が思うように行かず、将来に対し、不安を持つている旨訴外石田に話した。訴外石田は、訴外光幸が、新しい店に全てをかけていたにもかかわらず、それがうまくいかなかつたため、大変なシヨツクを受けたのだと思つた。訴外石田は、訴外光幸の様子が心配で、同人の求めに応じ、同日午後にはシンガポールに行くことになつていたが、直ぐに訴外光幸のアパートに行き、同人と四時間くらい話した。その中で、訴外石田は、当時、別に男性と交際していたにもかかわらず、同人に結婚を持ちかけたところ、訴外光幸は、「結婚したいと思うが、まだまだ迷惑がかかるから。」と言つてこれを拒んだ。訴外石田は、訴外光幸方を出てシンガポールに向い、シンガポールに到着した日本時間の同月一五日午前二時ころ訴外光幸に電話をかけたところ、同人はがんばると言つていた。さらに訴外石田方の留守番電話には、同月一四日午後四時ころに入れられた「自分は、これからどんどん不幸になつて行くから巻込ませたくない。」という内容の訴外光幸のメツセージが入れられていた。

(三)  訴外光幸は、平成三年九月一五日、「すいません。店は売つてください、体力気力とももうありません。早く父母のもとへ行きたいと思います。」との心情のほか、経営する焼肉店の処分先の希望、契約書の所在、連絡を記載した遺書を残して自殺した。

二  以上の事実によれば、訴外光幸は、代々木店の立退を機に、独立を考え、早期に開店したいとの焦燥感に募られ、本件事故によつて受傷した外傷性くも膜下出血、脳挫傷、頭部外傷、右肘脱臼骨折の治療が完了していない段階で、新規店舗の開店の準備を始め、未だ意識障害や右肘の機能障害が残つていたため、開店後の状況に対して不安感と焦燥感を募らせ、加えて平成三年九月一日に、焼肉店を開業したものの、売上が思つたようには上がらなかつたことから、将来の見通しに対して強い焦燥感、不安感を有していたことは容易に推認できるところであり、訴外光幸は、自殺当時、抑うつ状態に陥つていたものと認められる。加えて、自殺直前の訴外石田との話の中で、本件事故の影響で自己の身体が思つたように動けないと、将来に対しさらに強い不安を覚え、焦燥感を募らせ、絶望的になつて自殺に及んだと認められる。なお、野田医師が、訴外光幸は、国立第二病院を退院した直後の平成二年ころから抑うつ状態にあつたと判断している点は、同医師が単なるノイローゼと抑うつ状態を峻別している基準に照らしても、これを直ちに容認することには躊躇を感じるが、少なくとも焼肉店を開店後、売上げが上がらなかつた平成三年九月初旬以降は、訴外光幸が抑うつ状態にあつたことは明らかであると認められるので、右の点は相当因果関係の判断に当たつては影響を与えない。そして、抑うつ状態にあつた人が、自己統制意志を制約され、自殺に至ることは十分に予見可能であるから、訴外光幸の自殺と本件事故との間には相当因果関係があると認めるのが相当である。

三1  ところで、自殺には、通常は本人の自由意思が関与しているものであり、前記認定のとおりの訴外光幸が自殺に至つた経過、自殺直前の様子に鑑みると、訴外光幸は、抑うつ状態によつて自由意思を抑制されてはいたものの、これを完全に失つた状態で自殺に至つたものとは認められず、自殺によつて生じた損害の全額を加害者に負担させることは、損害の公平な分担という損害賠償理念に照らして相当ではない。そして、自殺当時、訴外光幸の意識障害はかなりの程度回復していたこと、右肘の機能障害も手術によつて概ね改善されており、今後の機能回復訓練で相当程度の回復が見込まれていたことに鑑みても、訴外光幸が、焦燥感を募らせて抑うつ状態に陥り、自殺に至つたことには訴外光幸の心因的要因が寄与ていると認められる。その他、訴外光幸が治療を続けた場合、後遺障害が残存する蓋然性が高かつたこと等も考慮すると、本件においては、民法七二二条二項を類推して、その損害額から六五パーセントを減殺するのが相当である。

2  原告らは、野田医師が、一〇〇パーセント本件事故の影響で訴外光幸が自殺したと供述していることを元に、本件では寄与度減殺は認めるべきではないと主張するが、前記のとおり、訴外光幸は、自由意志を抑制されていたものの、これを完全に失つた状態で自殺に至つたものとは認められない上、右野田供述の趣旨は、条件関係においては本件事故の影響で訴外光幸が自殺した一〇〇パーセント間違いないと断言しているに過ぎず、これをもつて自殺への寄与がないとは認められず、その他、原告の主張を採用するに足りる証拠はない。

第四損害額の算定

一  訴外の損害

1  逸失利益

(一) 訴外光幸は、本件事故当時三一歳であつたところ、原告らは、訴外光幸は、昭和六三年六月から平成三年二月までの間に一か月当たり平均一〇〇万八八三八円、年間一二一〇万六〇六四円の営業利益を上げており、本件事故の日から一〇〇パーセント労働能力を喪失したので、逸失利益は、労働可能な満六七歳までの間、生活費を五〇パーセント控除し、三一歳から六七歳まで三六年間のライプニツツ計数一六・五を乗じた一億二八万六六三四円であると主張している。なお、原告らは、本件事故の日から逸失利益を請求しているが、訴外光幸が死亡した時点までの請求は休業損害と解すべきであり、逸失利益は死亡時から算定すべきであるので、原告の請求は、訴外光幸が死亡した時点までの請求は休業損害として、訴外光幸が死亡した後は逸失利益の請求として善解し、その損害額について検討することにする。

(二)(1) 訴外光幸は、本件事故当時、焼肉店を営み、相当程度の所得を得ていたことは明らかであるが、その所得について全く税務申告をしていないため(訴外光幸が、税務申告をしていなかつたことは、当事者間に争いがなく、証拠上も明白である。)、訴外光幸の収入として合理的に推認できるのは、その経歴、職種に鑑み、休業損害については本件事故日である平成二年の賃金センサス男子労働者学歴計の平均収入である年間五〇六万八六〇〇円、逸失利益については、訴外光幸が死亡した平成三年の賃金センサス男子労働者学歴計の平均収入である年間五三三万六一〇〇円と認めるのが相当である。

(2) 原告らは、甲二七、二八の一ないし一四、二九の〇ないし一四、三五ないし三八、三九の一ないし三及び四〇により、訴外光幸は一か月当たり平均一〇〇万八八三八円の所得を上げていたと認められると主張している。しかしながら、右各証拠は、その作成経過等が明確ではなく、その正確性が立証されたと認められない上、甲二七は明らかに焼肉店の売上げを記載したものであり、甲二八の一ないし一四及び二九の〇ないし一四は、いずれも訴外光幸が所得を得るために要した諸経費を全て算定したものとは認められず、右各証拠によつても、訴外光幸が、税務申告をしていなかつたことから合理的に推認できる平成二年及び同三年の賃金センサス男子労働者学歴計の平均収入を遥かに上回る一か月当たり平均一〇〇万八八三八円の所得を上げていたと認められるものではない。

のみならず、原告らは、訴外光幸は、本件事故時から一〇〇パーセント労働能力を喪失し、得べかりし利益を得ることができなかつたと主張し、本件事故当日から逸失利益を請求しているにもかかわらず、他方で、訴外光幸は、本件事故の日である平成二年八月二三日から平成三年二月までの間にも一か月当たり平均一〇〇万八八三八円の所得を上げていたと主張しているのであり、右各主張は明らかに矛盾している。前掲各証拠によれば、訴外光幸は、本件事故後、平成二年一〇月一三日までの間は、国立第二病院に入院して全く稼働しておらず、また、同病院を退院後も相当期間は稼働し得なかつたと認められるので、原告らの右主張中、本件事故と相当期間得べかりし利益を得ることができなかつたとの主張はこれを認めることができるが、右に明らかに矛盾する平成二年八月二三日から平成三年二月までの間にも一か月当たり平均一〇〇万八八三八円の所得を上げていたとの主張は、その主張自体からもこれを認めることができない。さらに、訴外光幸は、訴外双進商事を設立するまでは、訴外双英企画の従業員として稼働し、訴外双英企画から労働の対価として給与を給付される立場にあつたが、これについて源泉徴収票や税務申告がされたとの証拠はなく、訴外光幸がどの程度の給与を得ていたかは認定できない。また、原告は、訴外双進商事を設立後は、他の取締役と共に焼肉店を経営しており、訴外光幸の収入は、訴外双進商事からの役員報酬として支払われているはずのものであるが、訴外双進商事から役員報酬として相応の金額が支払われていると認めるに足りる証拠はなく、かつ、仮に、原告らが主張する営業利益が役員報酬の性格を有しているとしても、訴外光幸が、右の期間稼働していなかつたことは明らかであり、右の報酬は、労働の対価として支払われたものではなく、利益配当として支払われたものと認めるのが相当であるので、いずれにしても、訴外光幸が、一か月当たり平均一〇〇万八八三八円の所得を上げていたと認めることはできない。

(三) 休業損害

前掲各証拠によれば、訴外光幸は、本件事故後の入院期間、さらに、通院期間中に双英企画から経営を任されていた代々木店が立ち退き、平成三年五月一日ころに、訴外豊川に阿佐谷の焼肉店を譲渡するまでの間は全く稼働できなかつたと認められる。他方、右譲渡後、同年九月一日に新店舗を開店するまでの間は、開業準備のため、元来休業していたものであるから、その間の休業については、本件事故と相当因果関係を認めることはできず、休業損害を認めることはできない。また、新店舗を開店後は、休業損害を生じたと認めるに足りる証拠はないので、結局、平成三年五月一日以降、訴外光幸が死亡した同年九月一五日までの間は、休業損害を認めることはできない。なお、原告らは、右期間についても五〇パーセントの生活費控除をし、中間利息も控除して請求しているが、死亡前は、休業損害であるから生活費控除及び中間利息の控除は不要である。

前記認定のとおり、訴外光幸の休業損害は、平成二年賃金センサス男子労働者学歴計の平均収入である年間五〇六万八六〇〇円を基礎として算定するのが相当であるところ、右は一日当たり一万三八八六円の収入となる(円未満切り捨て。以下、同様。)。訴外光幸は、本件事故により、本件事故当日の平成二年八月二三日から平成三年四月末日までの二五一日間稼働できず、収入を得られなかつたと認められるので、訴外光幸の休業損害は、右の一万三八八六円に二五一日を乗じた三四八万五三八六円と認められる。

(四) 逸失利益

訴外光幸は、死亡時三二歳であつたので、労働可能な六七歳までの三五年間、毎年平成三年賃金センサス男子労働者学歴計の平均収入である年間五三三万六一〇〇円の得べかりし利益を失つたと認められるので、訴外光幸の逸失利益は、右の五三三万六一〇〇円に生活費を五〇パーセント控除し、三五年間のライプニツツ計数一六・三七四一を乗じた四三六八万六九一七円と認められる。

2  入院付添費 二二万〇五〇〇円

訴外光幸は、入院中、付添看護を要し、職業付添人に付き添いを依頼し、右付添費については被告らから支払済みであることが認められる。しかしながら、前掲各証拠及び甲四四によれば、訴外光幸は、本件事故直後はICUで治療を受けるなど瀕死の状態であり、このような訴外光幸の症状に鑑みれば、職業付添人の外に、原告の請求する四九日間程度の期間の近親者の付添看護は相当因果関係が認められる。親族の付添費用は、経験則上、一日当たり四五〇〇円が相当と認められるので、付添看護費は二二万〇五〇〇円と認められる。

3  傷害慰謝料 一七三万円

訴外光幸の受傷の程度、自殺までの入通院期間、その他、本件における諸事情を総合すると、本件における傷害慰謝料は一七三万円と認めるのが相当である。

4  死亡慰謝料 一六〇〇万円

訴外光幸の死亡時の年齢、生活状況、家族関係、本件事故の態様、その他、本件における諸事情を総合すると、本件における死亡慰謝料は一六〇〇万円と認めるのが相当である。

5  葬儀費

本件と相当因果関係の認められる葬儀費用は一二〇万円と認められる。

二  寄与度減殺

前記のとおり、本件ではその損害から六五パーセントを減額するのが相当であるところ、入院付添費、休業損害及び傷害慰謝料の合計五四三万五八八六円については、自殺による寄与度減殺を認めるのは相当ではなく、逸失利益、死亡慰謝料及び葬儀費の合計六〇八八万六九一七円から六五パーセントを減額するのが相当であるから、寄与度減殺をした結果、逸失利益、死亡慰謝料及び葬儀費の損害額は二一三一万〇四二〇円となる。これに入院付添費、傷害慰謝料及び休業損害の合計五四三万五八八六円を加算した合計二六七四万六三〇六円が訴外光幸の損害額となる。

三  既払金 四〇万円

被告は、付添看護費等合計一一八万六四三一円の弁済を主張しているが、このうち付添看護費については、前記のとおり職業付添人以外近親者の付添看護は相当因果関係が認められるので、本訴における既払金と認めるのは相当ではない。その余の主張のうち、甲四〇、乙二六及び二九により認められる休業損害として支払われた二回合計四〇万円のみであり、その余の支払分は、原告らが受領済みとして請求していない部分についてのものであるので、本訴における既払金として認めることはできない。結局、本訴における既払金は四〇万円と認められる。

四  弁護士費用 二六〇万円

本訴訴訟の難易度、審理の経過、認容額、その他、本件において認められる諸般の事情に鑑みると、本件事故と相当因果関係のある弁護士費用は二六〇万円が相当と認められる。

五  相続

以上の次第で、訴外光幸の損害額の合計は二八九四万六三〇六円と認められるところ、原告真知子、同千鶴子及び同万亀子はそれぞれ七分の二ずつ、原告孝は七分の一、訴外光幸の損害賠償請求権を相続したので、原告真知子、同千鶴子及び同万亀子の損害額はそれぞれ八二七万〇三七三円、原告孝の損害額は四一三万五一八六円と認められる。

第四結論

以上のとおり、原告らの請求は、被告らに対して、各自、原告真知子、同千鶴子及び同万亀子に対してそれぞれ金八二七万〇三七三円、原告孝に対して金四一三万五一八六円及びこれらに対する平成二年八月二三日からそれぞれ支払済みまで年五分の割合による金員の支払いを求める限度で理由があるが、その余の請求はいずれも理由がない。

(裁判官 堺充廣)

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